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醤油(醬油、しょうゆ)は、主に穀物を原料とし、醸造技術により発酵させて製造する液体調味料であり、日本料理における基本的な調味料の一つとなっている。「醤油」の名のついた調味料は東アジア各国の民族料理にも広く使用されているが、それぞれの文化によって材料など製法が異なる。以下は主に日本の醤油について記述する。
日本の醤油は独自の発展を経て明治時代の中期に完成を見た。日本の醤油は大豆、小麦、塩を原料とし、麹菌、乳酸菌、酵母による複雑な発酵過程を経て生成され、その過程でアルコールやバニリン等の香気成分による香り、大豆由来のアミノ酸によるうまみ、同じく大豆由来のメチオノールによる消臭作用と、小麦由来の糖による甘みを持つ。なお、醤油の赤褐色の色調は、主にメイラード反応によるものである。
醤油は日本料理の調理で煮物の味付けに使用したり、汁やたれのベースにしたり利用範囲が広い。また醤油差しに入れられて食卓に供され、料理にかけたり少量を浸す「つけ・かけ」用途にも使われる。天ぷら、江戸前寿司、蕎麦など、日本の食文化の基本となっている調味料である。ほとんどの場合(8割)は濃口醤油が使用されそれが醤油の代表となっているが、他の醤油も使用されている(後述)。
「しょうゆ」という語は15世紀ごろから用例が現れる。文明6年(1474年)成立の古辞書『文明本節用集』に、「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られているのが文献上の初出である。漢字表記の「醤油」は和製漢語で、上記「漿醤」から約100年後の『多聞院日記』永禄11年(1568年)10月25日 (旧暦)の条に初めて登場する。しかし『鹿苑日録』天文5年(1536年)6月27日 (旧暦)条には「漿油」と表記されており、「シヤウユ」の漢字表記はこちらの方が古い可能性が高い。また、初期には「醤油」の「油」を漢音読みして「シヤウユウ」と発音されることもあった[1]。
醤の漢字が常用漢字に含まれていないことから、当て字に正を用いて正油と書く事がある[2]。調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの「さしすせそ」で、醤油は「せうゆ」として「せ」に割り当てられているが、歴史的仮名遣では「しやうゆ」と書くのが正しい。ただし「せうゆ」という仮名遣も、いわゆる許容仮名遣として広く行われていた。醤油の別名、したじは吸い物の下地の意から、むらさきの別名の語源は諸説あり、醤油の色から来た女房詞、または江戸時代に筑波山麓で醤油が多産されたことからとも言われる。
英語: soy sauce 、 英語: soybean (大豆)に含まれる soy(-) は、日本語「しょうゆ」がスペイン語: 経由で伝わったものである。
[編集] 醤油の起源
醤油のルーツは醤(ひしお)であるとされている[2]。醤は、広義には「食品の塩漬け」のことを指す。紀元前8世紀頃の『周礼』で、「醤」という漢字が初めて使われた。文献上で日本の「醤」の歴史をたどると、701年(大宝元年)の『大宝律令』には、醤を扱う「主醤」という官職名が見える。また923年(延長元年)公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。また『和名抄』では、「醢」の項目にて「肉比志保」「之々比之保」(ししひしほ)についてふれており、「醤」の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している。
詳細は「醤」を参照
[編集] たまり醤油の誕生
「たまり」が文献上に初出したのは1603年(慶長8年)に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述がある。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述が同書に存在し、1548年(天文17年)成立の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている。
醤油の発祥・起源説は各種あり定かではない。
- 鎌倉時代の僧によって偶然できた説
- 醤油メーカーのヤマサ醤油によれば、醤油の元となるものを作ったのは、鎌倉時代、紀州由良(現在の和歌山県日高郡)の興国寺の僧であった心地覚心(法燈円明國師)であり、覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとしている[3]。
- 金山寺味噌を由来とする説
- 伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の径山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖法燈円明國師(ほうとうえんめいこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型とされる[4]。ただし、この伝承を裏付ける史料は見つかっていない。
- 斉民要術発祥説
- 500年頃の中国の『斉民要術』に現代の日本の醤油に似た醤の製造法が記述されていて、麹を用いた発酵食品は5 - 6世紀頃には中国などのアジア地域で製造されており、これが元だとする説がある。
[編集] 17世紀の日本国外輸出
日本国外への醤油の輸出は1647年にオランダ東インド会社によって開始された。伝承によればルイ14世の宮廷料理でも使われたという。フランスでの日本産醤油に関する記述は、『百科全書』(1765年)に現れる。当時の記録によると腐敗防止のために、醤油を一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青で密封したという。用いられたビンは「コンプラ瓶」と呼ばれた陶器の瓶であり、多数が現存する。
[編集] 濃口醤油・淡口醤油の登場
江戸時代初期までは、日本の醤油の主流はたまり醤油で、主な産地は上記の湯浅に代表される近畿と讃岐(引田、小豆島)に集中していた。しかし、たまり醤油は製造開始から出荷まで3年かかり、生産量が需要に追いつかなかった。
1640年代頃、寛永年間、巨大な人口を抱えて醤油の一大消費地となっていた 江戸近辺において、1年で製造できる「こいくち醤油」が考案された。また1666年(寛文6年)には、現在の兵庫県たつの市で円尾孫右衛門長徳が「うすくち醤油」を考案したと言われている。
[編集] 明治以降の醤油
幕末の1864年(元治元年)、物価高に悩んだ幕府が市場に値下げ令を発した際、商品の品質保持を理由に銚子と野田の7銘柄は「最上醤油」の名称で従来価格で販売する許可を得た。
明治時代初期では醤油産業自体、手工業的要素が強かったが、1882年(明治15年)以降に醤油の理科学的な手法の研究進歩に伴い、醸造技術及び企業形態の近代化が徐々に進んでいった[5]。
明治政府は醤油が生活必需品である事に目をつけ「醤油税」を創設。大正時代になるまで続いた。
ヨーロッパでの醤油販売は貴族の没落と安価な中国産・東南アジア産の醤油に押され、二度の世界大戦で販路を失って下火になった。
第一次世界大戦が由来する好況の影響で、1918年(大正7年)頃には設備の近代化に拍車をかけ、企業の合同も行われたことなどから、醤油は近代的な大量生産体制に移行していった[5]。
第二次世界大戦前後に深刻化した食糧難に伴い主原料の大豆が確保出来ず、日本の醤油製造は危機的状況に陥り、生産方針も質の向上より量の確保が先決であったため本醸造製法の醤油は僅かな量しか作られず、その代用品として「アミノ酸醤油」が主流の時代を迎えた[5]。終戦後、連合国軍最高司令官総司令部が醤油の重要性を理解せず、大豆を酸で加水分解した方が効率良く製造できるとの指導を行ったとされ、苦肉の策として大豆の加水分解液を醤油に利用する方法が導入され、戦後しばらくの間はこうした醤油造りが続いた。1950年(昭和25年)、配給公団の廃止と価格統制の撤廃により、自由販売が認められたことで食糧事情の回復進展とともに、再び質の向上を目指した本醸造醤油造りが復活し[5]、以降アミノ分解法等の製法が用いられることはほとんどなくなった。