テラ·ノヴァの競争のテントを設置する方法
栄光と悲劇−アムンセンとスコット−
アムンセン
スコット
そう、すべての大型飛行証明ダブルライフルケースついで、長年の宿願であった北極点到達を計画する。同国人の先輩ナンセンよりフラム号をはじめとする援助を受け、いよいよ出発というときに、ピアリーによる北極点到達のニュースが入る。アムンセンは心中密かに目標を変え、前人未踏の南極点到達を決意した。しかし、計画の中止を恐れ、北極の科学的調査を名目に1910年8月出発した。マデイラ島で隊員に真相を発表し、先発していたスコット隊へも電報でその旨を知らせると、マデイラを発って一路無寄港で南極の泊地へと到達した(1911年1月)。母国出港時の2ヶ月の遅れは、わずか10日まで縮まったのだった。
ロバート・ファルコン・スコット(1868〜1912)はイギリスはデヴォンポートの酒造工場経営者の長男として生まれた。ひ弱で癇癪持ち、消極的だった少年も、軍隊に入って見違えるように成長した。指揮官としての資格を十分に備えてはいたが、それはまたある点においては後の悲劇の原因となることにもなった。
イギリス王立地学協会会長のマーカムはスコットの才覚に注目し、南極探検隊の隊長に彼を選んだ。1902年から1904年にかけての探検で、S82°17′という人類最南点到達記録を記録し、また科学調査でも大きな成果をあげ、スコットは国民的英雄となった。
その後、先の探検での部下でもあったシャクルトンがS88°23′、極点までの距離残り160qまで到達(1909年)し、スコットも再び南極行きを望むようになった。しかし、彼の目的はあくまで科学調査であったが、資金集めにはどうしても「南極点到達」を掲げねばならなかった。
1910年6月、テラ・ノヴァ号はロンドンを発ち、南極へ向かった。メルボルンで、一通の電報を手にする。
「われ南極へ向かわんとす、マデイラにて、アムンセン」
フラムハイム
ハットポイント
最高のマジックをどのように使用するスコット隊もデポ設置にかかるが、早くも暗雲が立ち込める。アムンセン隊と違い、馬ゾリと犬ゾリの混成部隊(馬が主力)には事故があいつぎ、1トンの物資を運ぶ(1トンデポ)ものの馬3頭を失い、何よりS79°29′までしか到達できなかった。アムンセン隊の進出にはとうてい及ばない。
すでに本格的な探検行が始まる以前から、アムンセン隊に対して大きな遅れを取っていたことになる。隊員の練度についても同様で、南極に来てから初めてスキーを習った者もいるという始末では、先行きが思いやられるというものである。
82°デポ
馬と人と
どのように深いケンタッキー州で電気ケーブルに埋葬されている必要があり南半球にあたる南極大陸では、4月〜8月いっぱいまで厳しい「冬」を迎える。様々な観測や準備をしつつ、「春」を待つ。
さらにこの時期、スコット隊は悪天候に悩まされていた。先発、本隊、後発の3隊が合流し、11月25日、S81°付近で先発隊のうち2名を基地に帰した。隊員14人、馬9頭、犬23頭となった。
11月末にはスコット隊がむしろ好天に恵まれたが、12月に入ると雪が続き、馬の食糧が尽きてしまう。馬は射殺され、食料にされた。12月9日には全ての馬を失う。ソリの牽引を馬に頼っていたスコット隊は、人みずからの力でソリを曳かねばならなくなる。行程は鈍り、疲労は蓄積してゆく。アムンセン隊も犬を処分したが、あちらは計算内であり、その肉をデポに保存したが、スコット隊は重要な牽引力を計算外に失い、その肉も保存せず食べ尽くしてしまった。が、そもそもはこの自然条件に馬が適していないということである。前回の探検で犬ゾリの使用に失敗した結果を、そのまま鵜呑みにしてしまった。スコット隊の運命の歯車は、すでに狂い始めている。12月11日。予想に反して犬ゾリは氷河地帯を進むが、補助手段でしかな かった犬ゾリ隊は基地へ帰ることになる。S83°35′。ついに人力のみでソリを曳くことになった。雪盲に悩まされるようになる。
出発
敗北を知らず…
越冬を終え、1911年9月、アムンセンは総勢8人で出発した。しかし、未だ寒さは厳しく、一度基地へ引き返す。隊を二分し、3人を周辺地域の探検にあてて、総勢5人で再出発した。10月19日のことだった。
アムンセン隊は、あえてシャクルトンのたどったルートを避け、全くの新しいルートで極点を目指した。先のデポ設置で到達したS82°以南は全くの未知の世界となる。
犬にソリを曳かせ、人間はスキーでついていくという方法は思いのほか成功で、ロス氷床を抜けるまでの約550qの間、楽々と進むことができた。82°デポにたどり着いたのは11月3日、スコット本隊はようやく出発したばかり(S78°)だった。デポ作戦の成功で、あたかもここが出発基地のような充実ぶりである。
以後、緯度約1°ごとに帰途用のデポを新たに設置しつつ前進。荷が軽くなったことで行進速度はさらに速まる。
11月8日、S83°着。
11月12日、S84°着。
11月15日、S85°着。
ほぼロス氷床を抜け、行く手を遮る山脈を越えて南極「大陸」へと乗り込むことになる。
山を越えて
絶望
「…そうすることでできるだけ音を立て、やがて響いてくるはずの何発もの銃声を聞かずに済ませようとしていたのだ。我々の有能な僚友で忠実な助力者だった犬のうち24頭が死ぬ運命になっ� ��いた。つらいことだった。しかしやむを得なかった。目的を達成するためには何事からも尻込みしないことに我々の考えは一致していた」
その肉を貯蔵したデポを設置して、氷河地帯を抜けて12月3日、ついに「大高原」へと到達した。後は極点に向けて走るのみ。
1月16日。遠方に人工物と思われる雪の塚、立てられた黒い旗を発見。
1月17日。そこには、ノルウェーの旗が翻っていた。
「極点…神よ、ここは恐ろしい土地だ」
彼らはまだ、1480kmの距離を、自らソリを曳いて、帰らねばならない。
到達
あと20q
帰路。ペース調整のためスピードを落とす余裕さえあり、往路設置したデポは確実に通過。
明けて1912年、1月18日、スコット隊が極点を後にしたとき、アムンセン隊はすでに事前のデポ作戦で到達していた線さえも越えていた。1月25日、フラムハイム帰着。99日、2976qの旅だった。
翌日、フラム号入港。
「…彼らはみな愛想よく、満足そうだった。しかし誰一人極点のことを尋ねる者がいなかった。ようやくヤーツェンの口からそれがもれて出た。『あそこへは行ってきたんですか?』わが仲間たちの顔を輝かせた感情を言うのには、喜びという言葉では足りない、何かそれ以上のものがあった。」
食糧不足が深刻化し、凍傷にかかっていたエバンズが衰弱する。5人中唯一の兵卒(他は士官)という立場をわきまえていた彼は2月17日に死んだ。
3月に入る。急激な寒気で、オーツの凍傷は悪化した。行程はさらに遅れる。
3月16日。「ちょっと外へ行ってくる。しばらくかかるかもしれない。」オーツは、ブリザードの中に消えた。
3月19日。あの「1トンデポ」まであと20q。しかしついに一歩も動けなくなる。風と、雪と、氷と、寒さが彼らを阻んだ。
3月29日。ウィルソンとバワーズはすでに死んでいた。スコットは何通もの手紙をしたため、最後の日記をつける。妻に宛てた手紙の結び。
「家にいて安楽すぎる暮らしを送るより、はるかにましだった」
11月12日。捜索隊が遺体を発見した。
何もかもが成功したアムンセンと不幸を全て背負ったかのごとくに対比されるスコット。その悲劇的な最期に隠れがちだが、科学調査という本来の目的は少なからず果たした。単に「競争」の敗北が全てではない。一方、アムンセンがスコットの栄光を横取りし、あまつさえ死に追いやったという中傷も正しくはない。スコットは探検家として、してはならない過ちを犯したのも確かなのである。双方が成し遂げた成果は正しく評価されるべきであり、探検の歴史にとってどちらも必要欠くべからざる存在であることに変わりはない。
<参考文献>
本田勝一『アムンセンとスコット・南極点への到達に賭ける』教育社、1986年。
近野不二男『逸話で綴る 極地探検家物語』玉川大学出版部、1976年。
スコット著 中田修訳『南極探検日誌』ドルフィンプレス、1976年。
アムンセン著 中田修訳『南極点』ドルフィンプレス、1990年。
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