2012年3月1日木曜日

テラ·ノヴァの競争のテントを設置する方法

栄光と悲劇−アムンセンとスコット−

 20世紀に入っても、人類にはまだ地球上に「未知の世界」が残されていた。その一つが両極地方であった。その過酷な自然条件は人を寄せ付けず、それに挑んだ数多くの探検家の命を奪っていった。しかし、今世紀に入り、ついに極点への到達が果たされた。まず1909年、ピアリー(アメリカ)によって北極点が。そしてこのニュースは、ある一人の探検家にとって転機となった。さらにもう一人。アムンセン(ノルウェー)とスコット(イギリス)である。奇しくも「競争」となった南極点到達への道のりは、劇的な結末を迎えることになった。

アムンセン

 

スコット


そう、すべての大型飛行証明ダブルライフルケース  ロアルド・アムンセン(1872〜1928)はノルウェーの首都クリスチャニア(現オスロ)近郊の船乗りの家に生まれた。両親は彼を医者にさせたかったが、本人は密かに北極探検家となることを志し、鍛練を積んでいた。両親の他界の後、本格的に探険の道に進み、1903年から1905年にかけて、「北西航路」の通過に史上初めて成功する。大西洋からカナダの北を通り、ベーリング海峡を通過するこのルートは、ヨーロッパ人が300年以上にわたって探し求め、通過しようと多大な犠牲を払ってきた道のりだった。
 ついで、長年の宿願であった北極点到達を計画する。同国人の先輩ナンセンよりフラム号をはじめとする援助を受け、いよいよ出発というときに、ピアリーによる北極点到達のニュースが入る。アムンセンは心中密かに目標を変え、前人未踏の南極点到達を決意した。しかし、計画の中止を恐れ、北極の科学的調査を名目に1910年8月出発した。マデイラ島で隊員に真相を発表し、先発していたスコット隊へも電報でその旨を知らせると、マデイラを発って一路無寄港で南極の泊地へと到達した(1911年1月)。母国出港時の2ヶ月の遅れは、わずか10日まで縮まったのだった。

 

 ロバート・ファルコン・スコット(1868〜1912)はイギリスはデヴォンポートの酒造工場経営者の長男として生まれた。ひ弱で癇癪持ち、消極的だった少年も、軍隊に入って見違えるように成長した。指揮官としての資格を十分に備えてはいたが、それはまたある点においては後の悲劇の原因となることにもなった。
 イギリス王立地学協会会長のマーカムはスコットの才覚に注目し、南極探検隊の隊長に彼を選んだ。1902年から1904年にかけての探検で、S82°17′という人類最南点到達記録を記録し、また科学調査でも大きな成果をあげ、スコットは国民的英雄となった。
 その後、先の探検での部下でもあったシャクルトンがS88°23′、極点までの距離残り160qまで到達(1909年)し、スコットも再び南極行きを望むようになった。しかし、彼の目的はあくまで科学調査であったが、資金集めにはどうしても「南極点到達」を掲げねばならなかった。
 1910年6月、テラ・ノヴァ号はロンドンを発ち、南極へ向かった。メルボルンで、一通の電報を手にする。
「われ南極へ向かわんとす、マデイラにて、アムンセン」

フラムハイム

ハットポイント


最高のマジックをどのように使用する  アムンセン、スコット両隊ともに、南極大陸太平洋側のロス氷床にそれぞれ基地を設けた。アムンセン隊の基地「フラムハイム」の方が極点に100qほど近く、アザラシ等食糧も豊富だった。ここで越冬準備中、テラ・ノヴァ号とフラム号が会合した。アムンセンはテラ・ノヴァ号を訪問し、極点到達競争が宣言された(スコットは不在)。また、アムンセンはソリ曳き犬の提供を申し出たが、馬を主力とするイギリス隊はこれを断った。あるいはこれが、両隊の明暗を分けることになるかもしれない。    スコット隊は、イギリス伝統のマクマード湾ハットポイントに基地を置いた。スコット自らも、前回の探検でここを基地としていた。
 スコット隊もデポ設置にかかるが、早くも暗雲が立ち込める。アムンセン隊と違い、馬ゾリと犬ゾリの混成部隊(馬が主力)には事故があいつぎ、1トンの物資を運ぶ(1トンデポ)ものの馬3頭を失い、何よりS79°29′までしか到達できなかった。アムンセン隊の進出にはとうてい及ばない。
 すでに本格的な探検行が始まる以前から、アムンセン隊に対して大きな遅れを取っていたことになる。隊員の練度についても同様で、南極に来てから初めてスキーを習った者もいるという始末では、先行きが思いやられるというものである。

82°デポ

馬と人と


どのように深いケンタッキー州で電気ケーブルに埋葬されている必要があり  越冬を前に、「デポ」と呼ばれる前進基地を設置する作業が必要だった。事前に先行して食糧、燃料等の貯蔵所を設置しておけば、本隊の持参分とあわせてより多くの物資が使用可能となるわけである。アムンセン隊は三度にわたるデポ設置でS82°地点にまで物資を送り込むことに成功した。犬ゾリによる走行は順調で、S83°までの目標は達成できなかったものの、十分な量の物資は確保できたのだった。
 南半球にあたる南極大陸では、4月〜8月いっぱいまで厳しい「冬」を迎える。様々な観測や準備をしつつ、「春」を待つ。
   先発隊に引き続き、本隊は馬ゾリで11月1日に出発した。さらに犬ゾリ隊が後発する。事前のデポ設置が不首尾に終わっていたため、その分も物資を輸送しなければならなかったのだ。輸送隊を編成すればもちろん、彼ら自身が消費する物資も同時に運ばねばならない。大所帯の移動になればなるほど、雪達磨式に必要な物資は増え、また行進のスピードは鈍くなる。
 さらにこの時期、スコット隊は悪天候に悩まされていた。先発、本隊、後発の3隊が合流し、11月25日、S81°付近で先発隊のうち2名を基地に帰した。隊員14人、馬9頭、犬23頭となった。
 11月末にはスコット隊がむしろ好天に恵まれたが、12月に入ると雪が続き、馬の食糧が尽きてしまう。馬は射殺され、食料にされた。12月9日には全ての馬を失う。ソリの牽引を馬に頼っていたスコット隊は、人みずからの力でソリを曳かねばならなくなる。行程は鈍り、疲労は蓄積してゆく。アムンセン隊も犬を処分したが、あちらは計算内であり、その肉をデポに保存したが、スコット隊は重要な牽引力を計算外に失い、その肉も保存せず食べ尽くしてしまった。が、そもそもはこの自然条件に馬が適していないということである。前回の探検で犬ゾリの使用に失敗した結果を、そのまま鵜呑みにしてしまった。スコット隊の運命の歯車は、すでに狂い始めている。12月11日。予想に反して犬ゾリは氷河地帯を進むが、補助手段でしかな かった犬ゾリ隊は基地へ帰ることになる。S83°35′。ついに人力のみでソリを曳くことになった。雪盲に悩まされるようになる。

出発

敗北を知らず…


 越冬を終え、1911年9月、アムンセンは総勢8人で出発した。しかし、未だ寒さは厳しく、一度基地へ引き返す。隊を二分し、3人を周辺地域の探検にあてて、総勢5人で再出発した。10月19日のことだった。
 アムンセン隊は、あえてシャクルトンのたどったルートを避け、全くの新しいルートで極点を目指した。先のデポ設置で到達したS82°以南は全くの未知の世界となる。
 犬にソリを曳かせ、人間はスキーでついていくという方法は思いのほか成功で、ロス氷床を抜けるまでの約550qの間、楽々と進むことができた。82°デポにたどり着いたのは11月3日、スコット本隊はようやく出発したばかり(S78°)だった。デポ作戦の成功で、あたかもここが出発基地のような充実ぶりである。
 以後、緯度約1°ごとに帰途用のデポを新たに設置しつつ前進。荷が軽くなったことで行進速度はさらに速まる。
11月8日、S83°着。
11月12日、S84°着。
11月15日、S85°着。
ほぼロス氷床を抜け、行く手を遮る山脈を越えて南極「大陸」へと乗り込むことになる。

   アムンセン隊がすでに極点に到達し、帰途に就いたとき、スコット隊は未だ氷河地帯の半ばであった。「大高原」へと入り、12月31日、S87°に到達。1912年1月3日、極点到達のメンバーを選考。ここで、当初4人の予定が5人となる。それはこれまでの4人一組の行動パターンが崩れることを意味した。単純に、食糧の分量も減ることになる…スコット隊は自ら破滅へと進む。「5人目」のバワーズ隊員は、一人だけスキーがなく、徒歩であった。一つ前のデポに置いてきてしまっていた。

山を越えて

絶望


 山を登りきると、ほぼその高度を保ったまま極点まで「大高原」が広がっている。標高約3000m。アムンセン隊は山越えをわずか4日間程度で達成した後、当初の予定通りソリ犬の半数を処分した。食糧の消費を減らすとともに、処分した犬自体も残った者達の食糧とするのだった。人はこれを非情とそしるかもしれないが、食習慣の相違も考慮に入れれば、十分に考えうる行為である。もとより覚悟の上であるにせよ、彼らとてその日まで苦楽を共にしてきた「仲間」が処分されてゆくのに辛さを覚えずにはいられなかった。
「…そうすることでできるだけ音を立て、やがて響いてくるはずの何発もの銃声を聞かずに済ませようとしていたのだ。我々の有能な僚友で忠実な助力者だった犬のうち24頭が死ぬ運命になっ� ��いた。つらいことだった。しかしやむを得なかった。目的を達成するためには何事からも尻込みしないことに我々の考えは一致していた」
その肉を貯蔵したデポを設置して、氷河地帯を抜けて12月3日、ついに「大高原」へと到達した。後は極点に向けて走るのみ。
  1月15日。「我々より先についたノルウェーの国旗を見せられるというゾッとするような可能性がある」
1月16日。遠方に人工物と思われる雪の塚、立てられた黒い旗を発見。
1月17日。そこには、ノルウェーの旗が翻っていた。
「極点…神よ、ここは恐ろしい土地だ」
 彼らはまだ、1480kmの距離を、自らソリを曳いて、帰らねばならない。

到達

あと20q


 12月7日。シャクルトンの最南端到達記録を突破。最後のデポを設置。そして、12月14日、午後3時。ついに南極点に到達。ノルウェーの国旗を掲げ、周辺部を踏破。滞在は17日まで続き、入念な観測が重ねられた。
 帰路。ペース調整のためスピードを落とす余裕さえあり、往路設置したデポは確実に通過。
 明けて1912年、1月18日、スコット隊が極点を後にしたとき、アムンセン隊はすでに事前のデポ作戦で到達していた線さえも越えていた。1月25日、フラムハイム帰着。99日、2976qの旅だった。
 翌日、フラム号入港。
「…彼らはみな愛想よく、満足そうだった。しかし誰一人極点のことを尋ねる者がいなかった。ようやくヤーツェンの口からそれがもれて出た。『あそこへは行ってきたんですか?』わが仲間たちの顔を輝かせた感情を言うのには、喜びという言葉では足りない、何かそれ以上のものがあった。」

   些細な過ちの蓄積が、今や取り返しのつかない危機を招いていた。しかし、一行はあくまでも科学探検隊だった。ウィルソンはこの状況下でも岩石の標本を採集し、最後のテントまでそれは運ばれていった。
 食糧不足が深刻化し、凍傷にかかっていたエバンズが衰弱する。5人中唯一の兵卒(他は士官)という立場をわきまえていた彼は2月17日に死んだ。
 3月に入る。急激な寒気で、オーツの凍傷は悪化した。行程はさらに遅れる。
3月16日。「ちょっと外へ行ってくる。しばらくかかるかもしれない。」オーツは、ブリザードの中に消えた。
3月19日。あの「1トンデポ」まであと20q。しかしついに一歩も動けなくなる。風と、雪と、氷と、寒さが彼らを阻んだ。
3月29日。ウィルソンとバワーズはすでに死んでいた。スコットは何通もの手紙をしたため、最後の日記をつける。妻に宛てた手紙の結び。
「家にいて安楽すぎる暮らしを送るより、はるかにましだった」
11月12日。捜索隊が遺体を発見した。

 何もかもが成功したアムンセンと不幸を全て背負ったかのごとくに対比されるスコット。その悲劇的な最期に隠れがちだが、科学調査という本来の目的は少なからず果たした。単に「競争」の敗北が全てではない。一方、アムンセンがスコットの栄光を横取りし、あまつさえ死に追いやったという中傷も正しくはない。スコットは探検家として、してはならない過ちを犯したのも確かなのである。双方が成し遂げた成果は正しく評価されるべきであり、探検の歴史にとってどちらも必要欠くべからざる存在であることに変わりはない。

 

<参考文献>
本田勝一『アムンセンとスコット・南極点への到達に賭ける』教育社、1986年。
近野不二男『逸話で綴る 極地探検家物語』玉川大学出版部、1976年。
スコット著 中田修訳『南極探検日誌』ドルフィンプレス、1976年。
アムンセン著 中田修訳『南極点』ドルフィンプレス、1990年。

 



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